地名はアッチとコッチを区別するために用いられた符号であり、大木・塚といった目印や開墾や災害など の出来事から付けられてきました。また地名は、人々に生活や事件などさまざまな記憶を思い起こさせるも のでもあります。それは昔の人も同じだったことでしょう。
『たちかわ物語』第2号では、市南部の古い地名に着目しました。人々の間で共有され、受け継がれてきた 地域に残る古い地名をたどることは、郷土の歴史を知るための大きな手がかりとなることでしょう。
・市史編さん基本方針………2~3 ・新しい市史の編さんによせて………4 ・平成28年度4月~ 9月活動報告………4
・部会短信………5
・柴崎村の地名をみる………6~7 ・部会特集(民俗・地誌部会)立川駅南を歩く~富士見町・柴崎町・錦町……8~9 ・資料提供のお願い………11
目
次
柴
崎
の
地
名
を
め
ぐ
る
冒
険
旧甲州街道と根川 ( 錦町 5 丁目 ) 昭和 30(1955)年 4 月 鈴木功さん撮影(解説は 12 頁)
2
Sep.2016
立川市史編さん基本方針
立川市史編さん基本方針が、編さん委員会の会議によって平成28(2016)年3月1日に決定いたしました。立川 市史編さんはこの方針をもとにこれから10年間の事業をおこなっていきます。
1.趣旨
『立川市史』は、市制施行25周年を記念して、上巻は昭和43(1968)年12月、下巻は昭和44(1969)年1月に 刊行されました。刊行から約半世紀が経過し、その間に、街並みや市民生活は劇的な変化を遂げ、今日では、立 川市は、多摩地域の中心都市として大きく発展しています。
これは、先人たちが過去から積み重ねてきた歴史の結果です。将来を見据え、今後のまちづくりを考えていく には、これまでの発展の経過を明らかにすることが、ひとつの手がかりとなります。
また、昨今、市内に残されている貴重な資料が急速に失われており、これらの資料を保存し、市民の財産とし て後世に伝えることも喫緊の課題となっています。
よって、新たに立川市史編さん(以下「市史編さん」という。)を進めるため、立川市史編さん基本方針を定め ます。なお、本方針の内容については、市史資料の収集や調査研究の進行状況により、適宜見直すものとします。 2.目的
市史編さんの目的は、次のとおりとします。
⑴ 立川市への理解と愛着を深め、もって市民文化の向上に寄与すること。
⑵ 立川市の歴史的変遷、及び古くから営まれてきた生活や民俗を明らかにし、将来のまちづくりや市民生活に 役立てること。
⑶ 立川市の歴史的、文化的遺産を調査し、市民共有の財産として後世に継承すること。 ⑷ 歴史的公文書等の保存・活用に向けた基盤整備を行うこと。
3.実施事業
市史編さんの目的に基づいて、次のように事業を進めます。
⑴ 市民に親しまれ、活用される市史となるように、編さん段階から、市民の参加・参画・情報提供の機会の創 出に努めるとともに、地域の関係団体等との連携・協力を図る。
⑵ 市域の内外を問わず立川市の考古、歴史、民俗、自然等に関わる有形・無形の資料(以下「市史資料」とい う。)を収集し、調査研究を進める。
⑶ 「市史」を刊行するとともに、資料情報の提供、公開のための目録や調査報告書を刊行する。
⑷ 市史編さんの普及・啓発を行うために、「市史だより」の発行や電子媒体を使った情報発信、関連講演会等 の開催を行う。
⑸ 市史資料や歴史的公文書等を将来にわたって適正に保存・管理し、公開・活用するための施設・方法を検討 する。
4.事業期間
市史編さんの事業期間は、平 成27(2015) 年 度 か ら 平 成36 (2024)年度までとします。全 体のスケジュールは右表のとお りとします。
5.組織及び体制
○立川市史編さん委員会 市長の諮問に応じて、市史編 さんの基本的なことについて審 議します。
○立川市史編集委員
時代・分野ごとに専門部会を組織し、立川市史編さん基本方針に基づき、資料収集及び調査研究の方法を確立 し、市史の編集、執筆を行います。部会間の調整のために、部会長と編さん委員長が編集委員会議をもつことと
します。 ○事務局
市史編さんを推進するための事務局として、産業文化スポーツ部地域文化課に市史編さん担当を設置します。 事務局には、立川市史編集委員の指導助言に基づき、専門的な調査・研究等を行うための専門嘱託員を必要に応 じて配置します。
○庁内組織との協力・連携
市史編さんは、庁内関連部署と調整を図り、協力・連携して進めます。 6.市史編集方針
市史の編集方針は、次のとおりとします。
⑴ なるべく平易な文章で記述し、写真・図版を活用するなど、親しみやすく、わかりやすいものとすること。 ⑵ 音声、映像、写真等の資料については、CD、DVD 等の記録媒体を有効に活用すること。
⑶ 前回の市史編さん事業以後に発見された資料や調査成果を体系的に整理し、反映させること。 ⑷ 立川市の基礎資料としても活用されるよう、正確で学術レベルの高いものとすること。 7.市史の構成と体裁
市史の名称は『新編立川市史』(仮称)とし、構成は以下のとおりとします。記述は、平成32(2020)年頃ま での出来事を取り扱うこととし、本編・資料編のほかに、特筆すべき事項を扱ったテーマ編と普及版(ダイジェ スト版)を別編として刊行します。また、目録と調査報告書を刊行します。
市史の判型は B 5判・タテ書きを原則とし、掲載内容の特徴から、より適した体裁がある場合には、適宜変 更するものとします。また、紙媒体とともに電子媒体での出版についても検討することとします。
なお、執筆に際しては、別に執筆要領を定めることとします。
8.市史の刊行計画
年度別の刊行計画は下表に定めるとおりとします。
⑴ 本編 ⑵ 資料編 …12 冊 ⑶ 別編 …4 冊 ⑷ 目録・調査報告書
通史編 上・下
先史編 古代・中世編 近世編①・② 近代編①・②
現代編①・② 民俗編①・② 地図・絵図編 写真資料編
近代テーマ編 現代テーマ編 民俗地誌編 普及版
各部会の進捗に応じて 刊行する
年度(平成)
項目 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 調査体制の整備
編さん方針の策定 基礎調査
本格調査 資料編の刊行 本編の刊行 別編の刊行
目録・調査報告書の刊行 普及啓発
歴史的公文書等の保存・活用検討 まとめ(引き継ぎ等)
年度(平成)
刊行物 29 30 31 32 33 34 35 36
本 編 通史編(上・下) 〇
資料編
先史編 〇
古代・中世編 〇
近世編① 〇
近世編② 〇
近代編① 〇
近代編② 〇
現代編① 〇
現代編② 〇
民俗編① 〇
民俗編② 〇
地図・絵図編 〇
写真資料編 〇
別 編
近代テーマ編 〇
現代テーマ編 〇
民俗地誌編 〇
普及版 〇
月 日 活動内容 月 日 活動内容
4月
5日 事務所移転
7月
1日 市民協働作業(第4回日記輪読会) 17 日 第1回・古代・中世部会会議 2日 第1回・近世部会会議
25 日 先史部会巡見・打ち合わせ 12 日 第4回・立川市史編さん委員会
5 月
1日 第1回・近代部会会議 15 日 市民協働作業(第5回日記輪読会) 2日 現代史部会巡見
8 月
4日 第1回・現代部会会議
10 日 新聞取材(朝日新聞) 5日 市民協働作業(第6回日記輪読会) 11 日 テレビ取材(J : COM) 10 日 「広報たちかわ」記事掲載
12 日 先史部会巡見・打ち合わせ 13 日 第2回・古代・中世部会会議 20 日 市民協働作業(第1回日記輪読会) 19 日 市民協働作業(第7回日記輪読会) 22 日 民俗・地誌部会巡見 23 日 第4回・立川市史編集委員会
6 月
上旬 事業協力依頼(自治会回覧) 28 日 第2回・近代部会会議 2日 先史部会巡見・打ち合わせ
9 月
2日 市民協働作業(第8回日記輪読会) 3日 市民協働作業(第2回日記輪読会)
16 日 たちかわ物語 vol.2発行
6日 古代・中世部会普済寺訪問 市民協働作業(第9回日記輪読会) 17 日 市民協働作業(第3回日記輪読会)
25 日 第2回・民俗・地誌部会会議(予定) 23 日 先史部会巡見・打ち合わせ 第2回・近世部会会議(予定) 26 日 第1回・民俗・地誌部会会議
新しい市史の編さんによせて
立川市史編さん副委員長の楢崎茂彌さんに、新しい立川市史へ寄せる思いをうかがいました。
当事者が映像で伝える立川の歴史
(楢崎 茂彌 立川市史編さん委員会副委員長)
戦前、立川陸軍飛行場周辺には、陸軍航空技術研究所など陸軍航空関係の機関・工場が集 中し、立川は “ 軍都 ” と言われました。軍は敗戦直後に文書の焼却を命じ、軍関係の記録は ほとんど残されていません。そこで文書としては失われた当時の歴史を記録するため、平成 7(1995) 年から中央公民館の「立川飛行場に関する学習会」に参加し、多くの関係者に聞 き取りをして、『昭和記念公園は飛行場だった』第1集・第2集をまとめました。聞き取り は歴史を知る手段として、文書と同じくらい大事だということを知りました。
また、立川やその周辺は “ 軍都 ” ゆえに10回以上の空襲を受け、多くの方が犠牲になりました。そこで、体 験者のお話をビデオに撮り、昨年戦後70年にあたる立川市の平和事業の一環として上映し、たくさんの市民の 方々に観てもらいました。当事者が体験を直接語る映像は大きなインパクトを持っており、のちの世代に歴史 を伝える有効な手段だと感じています。
新しく編さんされる立川市史が、文章や資料・写真だけでなく、証言映像や音声も利用する画期的なものに なることを期待しています。
戦後、立川には米軍基地が置かれ、松本清張の「ゼロの焦点」に描かれたように、生きるために米兵を相手 にする仕事につかなければならなかった女性もたくさん住んでいました。こうした立川の暗い面にも目をそむ けず事実を掘り起こし、記録に残す市史であってほしいと思います。
編さん委員として微力ながら手助けが出来れば幸いです。
平成28年度4月~ 9月活動報告
※日記輪読会…江戸時代に名主の家で作成された日記を市民の方々と一緒に読んでいく会です。
参加者にはあらかじめ割り振られた日記の一部分を読み下して音読してもらい、合わせてくずし字
部会短信
近代部会
明治維新から太平洋戦争終結 までを扱う近代部会では、『資 料編2』(平成32(2020) 年度刊 行予定)の収録範囲を立川飛行 場が開設した大正11(1922)年 からと定め、刊行に向けた調査 を行っています。デジタル化を 終えた立川村役場文書の調査や 歴史民俗資料館収蔵の砂川村役 場文書・私家文書の調査に加 え、外部機関が所蔵する立川関 係資料の収集・確認作業も開始 しました。立川飛行場の開設以 降、さまざまな企業が活動した 立川の近代史をひも解くには、 地域資料ばかりでなく、企業の 営業報告書や関連資料など、地 域には残りにくい資料からもア プローチする必要があります。 今後は資料編の章立てを定める など、より具体的な編さん作業 に取り組みます。
現代部会
5月2日に市内巡見を行いま した。ファーレ立川・立川競輪 場・栄緑地・南部住宅地区・け やき台団地等を見て歩くことを 通して、戦後立川の変遷の一端 を感じ取ることができました。 また、昨年度から引き続き立川 関係新聞記事の見出しデータ化 を進めているほか、国立国会図 書館・東京都公文書館での資料 調査を開始しました。今後さら に、公文書の調査、関係者から の聞き取り等を行いたいと考え ています。
民俗・地誌部会
3月に柴崎地域、5月に砂川 地域の巡見を行いました。それ ぞれ編さん委員で地元出身の鈴 木功さん(柴崎地域)、豊泉喜 一さん(砂川地域)の案内をい ただき、用水や畑、石碑、旧家 や寺社等を踏査しました。歴史 民俗資料館所蔵の資料整理と、 民俗調査(お祭りや年中行事、 昔の暮らし等)を開始しまし た。皆様のところにも部会の委 員がうかがうこともあるかと思 います。その折にはどうぞよろ しくお願いいたします。
先史部会
4月から先史部会の活動が本 格的に始まりました。先史部会 では、立川市域の地質や環境史 の調査と、旧石器時代・縄文時 代から古墳時代・律令期までの 考古資料の調査を担当していま す。現在立川市では、北部の砂 川地域と南部の柴崎町・富士見 町・羽衣町などを中心に、20か 所の遺跡が登録されています。 市域北部には旧石器時代から縄 文時代初期の遺跡が点在し、南 部には向郷遺跡・大和田遺跡な ど縄文時代の大規模な集落遺跡 が確認されています。これらの 遺跡を中心に、立川市に関する 考古資料の基礎調査から進めて いるところです。
古代・中世部会
歴史民俗資料館に所蔵・寄託 されている、平安時代末頃から 活躍していた武蔵武士立川氏に 関する古文書や鎌倉時代の石造 物を調査しました。古文書は鎌 倉時代から室町時代に書かれた もので、筆跡などを細部まで確 認しました。石造物は元々普済 寺本堂裏手に保存されていたも ので、鎌倉時代の銘の残るもの を多数確認できました。これら は中世の立川一帯を知る重要な 手がかりとなります。今後も引 き続き市内外の寺社・博物館に 残された中世の古文書・石造物 の調査や、古文書の翻刻作業を していく予定です。
近世部会
柴崎
の
地名
を
みる
立川と柴崎
「立川村」を含む一帯は、戦国時代には「立河郷芝崎村」と呼ばれていまし た。「立河」という地名は鎌倉時代にまで遡ることができると考えられています。 「立川」という自治体名は、数百年前からあった地名を受け継いだものなのです。 「立川村」は、現在の柴崎町、富士見町、錦町、曙町、羽衣町、高松町、緑 町までを範囲としており、このあたりは、明治14(1881)年までは「柴崎村」と 呼ばれていました。立川駅南口に位置する「柴崎町」という町名は、柴崎村の中 心地であったことを示しています。
では、「立川」「柴崎」以外の地名はどうでしょうか。柴崎村では、集落や耕地 といったより狭い範囲を示す地名も多く用いられてきました。保坂芳春さんの『立 川の地名―立川編―』(立川市教育委員会1988年)によれば、江戸時代には集落を 指す30余りの地名と、耕地などを指す100余りの地名があったとされています。
『立川の地名―立川編―』に
みる地名とその分布
『立川の地名―立川編―』では、柴崎村の江戸時代の地名を、寛文7(1667) 年・文政元(1818)年・弘化3(1846)年・弘化5(1848)年・慶応3(1867) 年の検地帳、江戸時代後半頃のものとされる「近隣村名」(『諏訪神社所蔵古文書 第一集』 立川市教育委員会1984年)、文化7(1810)年~文政11(1828)年に幕 府によって編さんされた『新編武蔵風土記稿』、柴崎村の名主だった鈴木平九郎 が天保8(1837)年~安政5(1858)年にかけて書き記した『公私日記』などの 古文書から拾い集めています。
また、当時の地名の位置を現在の番地に正確に対応させることも試みられまし た。しかし、地名の目印となっていた塚や古道などは立川飛行場の開設(大正11 (1922)年)や市街化に伴ってほとんど消滅しており、両者を正確に対応させる
ことは難しいことが指摘されています。
そこで古文書だけでなく古老からも聞き取りが行われ、さらに普済寺(柴崎町 4丁目)や常楽院(富士見町3丁目)、諏訪神社(柴崎町1丁目)などの古刹・ 古社や、富士塚(富士見町1丁目)などの旧跡を手がかりとして、当時の地名の おおよその位置が推定されていきました(普済寺、諏訪神社、富士塚について は、8頁の部会特集もご覧ください)。その結果、集落に伴う地名と耕地などに 伴う地名は、右図に記したような分布をしていることが示されました。
この図は、立川市歴史民俗資料館が所蔵している「柴崎村絵図」(享和4(1804)年)に加筆したものです。
柴崎
村
の
地名
を
みる
崖
がいせん線とは?
崖線とは、低地と台地、あるいは標 高の高い段丘と低い段丘とを分ける 連続した崖のことを言います。
古い地名を探してみよう
地名は単なる符号ではなく、そこに住んだ人々が抱いていた歴史的・地理的 な感覚、あるいは伝承や信仰の表れでもあります。現在立川市では、古い地名 が正式な地名として用いられることはほとんどなくなりました。ですが古い地 名は、町会名やお店の名前として、現在でも日常生活の中にみることができま す。普段何気なく使っている名前の中にも古い地名が潜んでいるかもしれませ ん。(鳥越)
※『立川の地名―立川編―』は歴史民俗資料館や市政情報コーナーで頒布中です。 また、市内の各図書館でも閲覧することができます。
富士見町4丁目付近の崖線の様子(平成28年)
崖線
多摩川低地
武蔵野台地
郷地前 郷地さかい
台の下 立野
台前 大竹田
長塚
久保田
金子田
へびかいと 勘ヶ油待
角田 雁田 高田山 横手 塚田東
堂
之
前
坂
下
仏
堂
機足木 蟹
田
塔
之
前
ね
が
ら
み
堂之脇
橋場
弁
天
前
まま下 鯉沼
あら田 柿下
二反田・三反田 四反田・五反田 六反田
大和田上 大和田下 がにがら
下川原 すま田
江地上
かねふきど 富士塚
坂上 井戸坂
苅寄場
い
ど
づ
か
苅干場
上の原
大道 かますかいと
久保
正
身
塚
えの木下 畑中
道
正
林
北
原 八幡後 なし木
八幡街道上 そとわど
根付 赤松原
コハゲ久保 砂川久保
神
明
木
原市場
バ
ム
バ
野 岨沢
下原 大沢
井戸端
向郷
みのわ 谷川
往還道上
く
ね
ぎ
は
あ
ら
く
江地前 江地さかい
台
台の下
台の上
滝坪 滝の上
滝の下
西屋敷 山中
はけ
茅
戸 出口
横町
辻 新屋敷
沢 大和田
上
の
原
金堂
芝中 新田
下和田
角
番場
惣門 門前
西
番
場
七軒屋(柴崎新田)
西
玉川(多摩川)
北
東
南
石川原普済寺領
立川駅
甲州道中
甲州道中
江戸海道 江戸海道 田無道
常楽院
第六天
満
願
寺
八
幡
宮
諏
訪
神
社
箱
根
ヶ
埼
道
台
道
滝
の
上
道
滝
の
上
中
道
正
心
道
八
幡
道
諏
訪
道 原市道 神明木
道
府
中
砂
川
新
田
道
日
野
海
道 芝中
道
満
願
寺
道 田村
道
普済寺
●
西立川駅
●
●西国立駅
●柴崎体育館駅
●高松駅
耕地などに伴う地名
集落に伴う地名
私
滝ノ上会館近くの畑
玄武山普済寺
日野の渡し碑
線路を越える
資料提供のお願い
資料提供のお願い
立川市は普済寺や諏訪神社など優れた文化遺産が点 在しています。近年は開発によって、地域に受け継が れてきた歴史的遺産が転換期を迎えています。市史編 さん事業は、立川市がこれまで歩んできた足跡を記録 し、後世に伝える使命があります。市民のみなさまが お持ちのさまざまな資料や情報の調査・収集が不可欠 です。
文字としては残されていないものでも貴重な生活の 記録となります。ご提供いただける資料やお聞かせい
は1級選挙人18人が6人の議員を選び、2級選挙人133人が6人を選んだという事が分かります。
名誉職は無給といいながら、費用弁償や報酬はありました(町村制・第55条)。史料②は、町村長らの待遇改善 の経過を示す文書の1つです。大正9(1920)年の「村吏員待遇表」には、町村長の欄はありませんが、大正10 (1921)年の町村吏員報酬給料額一覧表には、町村長
の欄があり、報酬給料額が記されています。このよう な調査が行われるように、町村長以下雇に至るまで、 役場機能を維持するため、待遇の確保と把握は大事 な問題になっていました。
歴史は、史料を無視して語ることはできませんが、 史料の字面をそのままなぞるだけでは歴史になりませ ん。史料が作られてきた当時の時代背景などを考えな がら過去の姿を明らかにしていくことが、歴史に迫る 作業ということになります。それは、検証と顕彰の間 を往復しながら歴史像を豊かにしていく作業ともいえ ます。過去を明らかにし未来の指針を作るのが、新・ 立川市史の目的です。
市史編さん広報紙
vol.2
平成28(2016)年9月16日発行
発行 立川市産業文化スポーツ部地域文化課市史編さん担当 レイアウト 山下祐香理
〒190-8666 東京都立川市泉町1156-9
TEL (042)506-0021 / FAX(042)525-1601 E-mail [email protected]
URL http://www.city.tachikawa.lg.jp/chiikibunka/sisi/hensanshitu/shishi_top.html
印刷 ぎょうせいデジタル株式会社
■文書、書類、印刷物
江戸時代から平成に至るまでのさまざまな古文書・書類・会 誌・記念誌、チラシ・広告などの印刷物。
■絵図、地図類、写真映像、音声
土地の変遷や街並みのわかる絵図、地図類、景観や人の暮ら しを写した写真や映像、音声など。
■地域の年中行事・信仰、ムラのつきあいや慣習など
史料②
大正10年庶務雑件(左)/ 大正9年庶務雑件(右)関係者は従事者証を
携帯しています
もし、手元に高校の日本史教科書があるのなら開いてみてください。明治憲法の制定のところで、「市制・ 町村制」という法律がゴシック体になって明治21(1888)年に公布されたことが記述されていませんか。 なぜ、重要な歴史用語として覚える必要があるのでしょうか。
今回は、明治の地方制度を取り上げ、そこから、立川の近代を考える糸口にしたいと思います。
史料①
大正9年庶務雑件資料をよむ
~「立川村役場文書」歴史民俗資料館所蔵から~明治地方制度の諸相―名誉職・等級選挙に注目して
近代部会編集委員高江洲昌哉
まず、市制・町村制の特徴を挙げておきましょう。①町 村長は町村会によって選ばれる、②町村長・助役といった 役場吏員は、原則無給の名誉職とする(雇などの事務職員 には給与を支給)、③議員は納税額によって区分された1 級・2級選挙人によって選ばれる(議員も名誉職)。この 「無給の名誉職」による自治が明治地方自治の基本原則と
いえます。
なぜ、明治地方自治は、このような論理をとったので しょうか。「市制・町村制」に付随して公布された「市制 町村制理由」には、「国家の基礎を強固にするため、国民 が国家に尽くすように、地方の人民が名誉のために無給で 其の職を尽くす」とあります。国家への義務を果たす訓練 論的な考え方が反映されていたようです。
明治地方自治は無給という原則のため、町村長や議員をつとめるためには一定の財産が必要でした。もっとも財産 だけでなく、「人望」も必要なので、明治の地方自治は、担い手に即して「名望家自治」とも呼ばれています※1。現 在、こうした名望家たちが残した史料を分析して、「名望家自治」の実像を分析する研究が全国各地で活発に行われ ています。これを立川に残された史料から確認し、国の制度に規定される形で、どのように地方自治が展開してきた のかを明らかにするのが、近代部会の仕事になります。
「無給の名誉職」という役割は、「無私の公共心」を求めるという理想の一方、「無給」である点は「国家にとって 都合の良い」部分でした。 しかし、この無給原則は、多くの町村で政府の思惑通りにはいきませんでした。旧『立 川市史』にも、町村制施行直後に立川村・砂川村で村長を有給吏員とする条例が制定されたことが記載されていま す(『立川市史 下巻』立川市史編纂委員会,1969年,944頁~947頁※2)。一般的には、「無給の名誉職」が有給吏員 化される過程は、給与目的で就任することを批判する論と、有能な人物を揃えるという現実との妥協の過程でした。 ここからは、立川村役場文書から、等級選挙に関する史料(史料①)と吏員の報酬給与に関する史料(史料②) を紹介します。
史料①は、大正時代にそれまでの立川村の村会議員選挙(等級別)有権者数と議員数の変遷を記したものです。 町村制第13条第2項は「選挙人中直接国税の納額多き者を(中略)一級とし爾余の選挙人を二級とす」とあります が、史料①から、立川村※3の選挙の実相【明治40(1907)年※4(1級・33人―3人、2級・133人―3人)、明治43 (1910)年(1級・28人―3人、2級141人―3人)、大正2(1913)年(1級・19人―6人、2級・145人―6人)、
大正6(1917)年(1級18人―6人、2級・133人―6人)】を確認することができます。例えば、大正6(1917)年
※1…「市制・町村制」では選挙資格のある人を住民と区別して公民と表記しています。
※2…ただし明治25年の砂川村会議事録を見ると、有給村長ではなく名誉職(無給)に決めたことが記されています(『廿三年ヨリ廿五年ニ至ル 村会書類』に所収)有給/無給をめぐる動きは複雑なので、今後詳しい調査が必要です。
※3…本欄では立川村を紹介しましたが、砂川村役場文書にも砂川村の村会議員選挙の記録が綴じられており、砂川村の等級選挙の実態も確認 することができます。
※4…明治40年の当選議員数合計が6名なのは、半数改選によるものです(明治40年の選挙については、『立川村々会選挙ニ関スル書類』に所収)
※従事者には、編集委員/ 特定部会委員/主任調査員 /調査員の種別があります。
ただけるお話がありましたら、下記市史編さん担当までご連絡ください。
今後、市史編さん事業の関係者が資料収集やお話を聞くために、みなさまの元へお伺いすることがあります。ご 理解・ご協力をよろしくお願いいたします。
旧甲州街道と根川
表紙の写真は、旧甲州街道(現在の柴崎市 民体育館東側の道)が根川を渡る橋を撮影し たものです。満開の桜の下では山羊がくつろ ぎ、とてものどかな風景です。撮影者によれ ば、職場のお昼休み、花見がてらの散策中に 撮った一枚とのこと。昔から桜の名所として 市民に親しまれてきた根川を物語る貴重な写 真です。
江戸時代の根川は、崖線の湧水を集めて 流れる川でした。今号の特集でも「滝坪」 「滝の下」といった湧水にまつわる地名が紹
介されています。明治41(1908)年には残 堀川の改修工事が終わり、富士見町4丁目 の滝ノ下で残堀川と合流しました。水量も 豊富で、昭和20年代まではボート乗り場が あり、船着き場には茶店も建っていました。 桜の下でボートを楽しむ風景は絵はがきに もなり、当時の人気スポットであったこと をうかがわせます。一方で、大雨が降ると 水があふれ、たびたび水害をもたらすこと もありました。そのため、昭和47(1972) 年に河川改修が行われ、柴崎町5丁目の立 川橋付近から多摩川までショートカットさ せる流路となりました。立川橋から下流の 根川は廃河川となりましたが、自然公園と して整備され、現在は根川緑道として、ふ たたび市民の憩の場となっています。
旧甲州街道
(昭和29年)ボート遊び
(昭和15年頃)旧甲州街道
(平成28年)根川の洪水
(昭和45年)
根川緑道
(平成28年)根川の改修工事
(昭和48年頃)船着き場と茶店
(昭和16年)
至立川駅